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2021-10-06 21:09
(連載2)ゼロ・コロナの不可能性
篠田 英朗
東京外国語大学大学院教授
新型コロナの根絶が不可能であることに、もうほとんどの人々が気づいている。甚大な犠牲を払ってロックダウンを繰り返し、必死になってワクチンを打ちまくっても、新型コロナを根絶できるという見通しは立たない。少なくとも近い将来に「ゼロ・コロナ」を達成することが不可能であることは、火を見るより明らかである。超大国の威信かけた軍事介入をしたからといってテロリストを根絶することができるのか、という疑問は、2001年の「対テロ戦争」の初期段階から存在した。それでも最大限の努力は払わざるを得なかった。人間の生死にかかわる事柄だったからだ。同じように、新型コロナ対策が世界的に行われ始めた2020年の春の時点から、ウイルスを根絶することなどできるのか、という疑問は存在した。それでも最大限の努力は払わざるを得なかった。人間の生死にかかわる事柄だったからだ。
しかしエボラ出血熱のように極めて死亡率が高いがゆえに、隔離を通じた根絶の道筋も立てやすい感染症であってすら、何年にもわたって撲滅宣言と再発見が繰り返されている。致死率が一定の低さであるがゆえに、極めて高い感染力を制御できない新型コロナが全世界の隅々にまで広がってしまい、画期的なワクチンで対抗しても集団免疫の達成は無理であることが判明してしまっている今、このウイルスを撲滅する方法は、少なくとも現実の政策立案で目標にできるようなレベルの事柄ではなくなってしまっている。確かに、ウイルス撲滅の不可能性は、苦痛を伴う認識である。簡単には受け入れることができない苦悩を伴う。だがそれが不可避であるならば、現実を受け入れることしか、前に進む方法はない。
そもそも「ゼロ・コロナ」が不可能だからこそ「ウィズ・コロナ」といったメッセージも、一年以上前から発せられてきたのではなかったか。そもそも日本では、新型コロナの初期対応の段階から、撲滅は極めて難しいという理解に依拠した「抑制管理」政策がとられてきたのではなかったか。厳しい現実を見据えたうえで最善の「抑制管理」を目指す「日本モデル」の意味は、しかし、「ゼロ・コロナ」が達成できないのは政権担当政党の無能と怠慢のせいであると糾弾する左翼勢力や、無責任な煽りを繰り返して日銭を稼ぐメディアだけでなく、もっともらしい抽象理論を振り回してマウンティングを繰り返すいわゆる専門家と呼ばれる人々などによってかき消されてしまった。苦痛に満ちたプロセスであっても「抑制管理」政策を精緻化するしか残された道はない、という現実判断に根差した政策議論は、時間がたてばたつほど、かえって忌避されるようになってしまった。あるいは不謹慎な話題だという烙印を押されて、封印されてしまった。
だが、答えを出すことが不可能であること知りながら、答えを出せない人を糾弾してストレス解消することだけを続ける生活は、あまりに非建設的であり、不健康である。国際社会が「ゼロ・テロリスト」から「ウィズ・テロリスト」への苦痛に満ちた政策転換を迫られている中で迎える2021年の9月11日は、あらためて「ゼロ・コロナ」から「ウィズ・コロナ」への政策転換の意味について考え直すのに良い契機であるかもしれない。(おわり)
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投稿履歴
(連載1)ゼロ・コロナの不可能性
篠田 英朗 2021-10-05 20:33
(連載2)ゼロ・コロナの不可能性
篠田 英朗 2021-10-06 21:09
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