拙稿『バイデン外交に見られるバランス感覚』(e-論壇「議論百出」、2021年4月2日付)では、中東でのアメリカの国益へのイランの攻撃に対するバイデン氏のレッドラインについてのマックス・ブート氏の有益な見解を引用した。ジョー・バイデン大統領は妥協の達人ではあるが、妥協とはレッドラインが明確であってこそできるものである。バイデン氏にはバラク・オバマ氏とドナルド・トランプ氏のようなカリスマ性はないが、慶応大学の中山俊宏教授によると、バイデン氏は自らの職務を「通常通りにプロフェッショナルなやり方で行なう大統領」だということである。
バイデン氏のカリスマ性なきプロフェッショナリズムは、バランスをとる能力とレッドラインを引く能力によるものと思われる。過去には、オバマ氏とトランプ氏があまりにアマチュアなために、アメリカが敵対勢力から重要な国益を守れなかったことが何度かあった。中でも両人ともシリアでは大きな過ちを犯した。2013年、オバマ氏はバシャール・アル・アサド大統領による化学兵器を用いた反政府勢力や非戦闘員への攻撃が行われた際に、空爆に踏み切れなかった。トランプ氏は、テロとの戦いが終了したものと思い込んで、2018年に当地より米軍を撤退させてしまった。その結果、アメリカと長年にわたる同盟関係にあった現地クルド人勢力が見捨てられ、ペンタゴンから厳しい批判の声が挙がった。これだけ見ても、トランプ氏には前任者を非難する資格など全くない。またフランスのエマニュエル・マクロン大統領は「我々が現在経験していることは、NATOの脳死である」という有名な一言を発した。それ以来シリアの安全保障は改善せず、トランプ氏が間違っていたことが明らかになった。
オバマ氏とトランプ氏の外交上の失敗に鑑みて、バイデン氏は世界各地でのアメリカの重要な国益を守るために、レッドラインをどのように引くのだろうか?まずロシアを挙げるが、それはウラジーミル・プーチン大統領が世界のどの国の指導者にも増して、手段を選ばずに一線を越えてきたからである。本年3月のNIC(国家情報会議)報告書に記されたように、ロシアは2020年にもアメリカ大統領選挙に介入して共和党のドナルド・トランプ候補に肩入れした。明らかにロシアはレッドラインを越えてアメリカの本土を攻撃してきた。いわば、これは第二の9・11同時多発テロなのである。中国でさえ、そのような攻撃に訴えることには躊躇した。その報告書によるとプーチン氏はサイバー攻撃ばかりでなく、トランプ陣営の人物と接触も重ねた。クレムリンはブレグジットとトランプ現象よりはるか以前からヨーロッパで選挙介入を繰り返し、西側のリベラル民主主義の正統性を損なおうとしてきたことを忘れてはならない。プーチン氏、トランプ氏、英国独立党のナイジェル・ファラージ氏らに代表される極右政治家は、ヨーロッパとアメリカの白人労働者階級の間にある怒りとレイシズムを利用して自分達の政治目的を達成してきた。ウクライナのジャーナリスト、アントン・シェコフツォフ氏は「ロシアによる欧米極右への支援はプーチン氏と彼を取り巻くシロビキの仲間達よりはるかに根深く、ソ連時代まで遡る」と指摘する。日本と東アジア近隣諸国の人々は今頃になって欧米でのアジア人差別の高まりに懸念を顕わにしているが、ロシアが白人キリスト教ナショナリズムへ支援してきたことを踏まえればそれは当然の帰結である。それにもかかわらず、クレムリンが欧州大西洋圏で行なってきた政治工作の脅威についてこれまでほとんど無関心だったことは嘆かわしいことだ。
ロシアの攻撃への対応でバイデン氏は明確なレッドラインを引いている。NIC報告書の講評を機に、4月には同盟国の支持も得てロシアへの制裁を強化した。さらにバイデン氏は同月にNATO同盟諸国の協力も得てプーチン氏に圧力をかけ、ウクライナとの国境地帯からロシア軍を撤退させた。これは、トランプ時代のアメリカ・ファースト払拭を印象付けるに充分である。忘れてはならぬことは、ロシアがクリミアに侵攻し併合まで行なったことに対して、オバマ政権がアメリカのレッドラインを守れなかったことである。トランプ政権はさらに悪かった。大統領自身がロシアの併合を認めたばかりか、プーチン氏とのヘルシンキ首脳会談では、あろうことか、自らが当選した大統領選挙でのクレムリンの介入に関して、アメリカ側よりもロシア側の情報機関を信用するとまでのたまった。その発言で、トランプ氏は大統領の職責など全く理解していないことを露呈した。好対照なことに、イギリスのボリス・ジョンソン首相は自らの首相就任には有利に働いたにもかかわらず、ブレグジット投票でのロシアの介入を非難している。ジョンソン氏はイギリスのレッドラインを理解している。(つづく)