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2007-05-24 19:02
吉田茂『回想十年』について
奈須田敬
並木書房取締役会長・月刊「ざっくばらん」編集長
名士の回想録といわれるものには、往々にして手前味噌、言い訳、責任転嫁の要素が多く、主観的・客観的に物事を観察、分析する描写力に欠けるように思われる。とくに政界、外交界において名を成した人達の回想録には、その傾向がつよくなるようだ。その理由は分らないではない。つまり、政界、外交界は他分野と異なり、虚々実々ともいうべき権力と闘争の世界において全精力を注ぎ込まざるを得ない状況下で、自分はいかに対応・対処してきたかを、回顧という名の “告白” で公表するのであるから、徒らに自己を卑下したり、他人を高く評価したりする訳にはいかない。回顧もまた戦いの場であるからであろう。
前置きが長くなったが、そうむずかしいことを言うつもりはない。ここでとりあげるのは、吉田茂の『回想十年(全4巻)』(新潮社、昭和32年)である。多くの回顧録とは一味も二味も違う、淡々たる語りの中に、吉田茂という人物の辺幅を飾らない人柄のさわやかさ、けれん味のなさが浮かび上がってくる。吉田自身が、いわゆる回顧録や自叙伝について、一家言を持っていたことを、本書序文の冒頭に語っている。すなわち、「由来、私は、自叙傳や回顧録を書かぬかと勧められると、いつも思うことは、これらの多くは、結局、自画自賛か、自家広告か、然らずんば辯解の類に過ぎない。第一そんなものが世を益したり、後世史家の資料として、価値あるものとも思えぬ。だから自叙傳、回顧録の類は書きたくないということである。またそう答えてもきた」と。
その、回顧録、自叙伝嫌いの吉田が「まんまと、禁を破らされてしまった」経緯が記されている。終戦十周年(昭和30年)という抗しがたい “脅迫” によるものであった。「かくて遂に、私の親しい友人達、その多くは私の内閣の同僚だった諸君が、回顧録編集委員会、または刊行会をつくり、各方面より資料を蒐集、整理し、更に多年新聞社で鍛えたその途の練達の士までが加わり、一年有余の間毎週集り、私に対し誘導尋問、恰も査問会の如きものが開かれるに至った」という。いずれにせよ、「査問会」の成果はめざましく、ついに原稿は出来上がった。が---
「出来上がってみると、やはり意に満たぬ点が多い。特にわれ乍ら滑稽に堪えぬのは、人の場合には散々貶した自画自賛的な個所の出ていることである。従ってこんなもの書くのではなかったと、今更悔恨の情なくもないが、終戦後約8年余も何かと国政に関与し来った責任もあり、またその大部分の歳月が、“占領下”という、わが国の歴史において特殊な事情の下にあった関係もあるので、この書が、いくらかでも世の参考になりはせぬかという気持ちにもなり、意を決して、出版を承諾した次第である。それにまた、この書の編集者の発案で、私の本文で書き足らざりし個所を補う意味や、当時の事情を一層髣髴せしむる目的のために、“餘話” なるものを随所に挿入する形をとることとなったが、これら“餘話” の執筆者は、いずれもその局に当面した人とか、あるいはその途の権威者ばかりであるから、私は、むしろ本文よりも、これらの“餘話”の方が、読者を益するところが多いと考える」と。
刊行されてから、ちょうど今年は50年である。吉田回顧録を現在の目で、「眼光紙背」に徹して読むと、吉田が淡々として語った史実の裏にかくされた日米関係の真実を理解できる面が多々ある。その重要な一つに、吉田とグルー駐日米国大使(戦後、米国務次官)との運命的な出会い、交流がある。吉田は「(グルー)大使の著書『滞日十年』は、わが国でもかなり読まれたから、多くの人の知るところであろうが、大使は本当の意味での知日家である」と断言している。次回で、二人の関係について掘り下げてみたい。
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