先日、国際原子力機関(IAEA)理事会が、IAEAとインドとの間の保障措置協定を承認した。これによって、インドが原子力協力を受けるまでの道は、原子力供給国グループ(NSG)がNPT未加盟国との原子力取引を禁じた規則を改正するという障害を残すのみになった。米国に限って言えば、米国議会において米印二国間の協定の承認が大統領選までの政治日程の中で可能なのかどうかという問題もあるが、フランスやロシアは、NSGによる規則の改正を、今か今かと待ち受けている。ある意味で、インドとの原子力協力は、「原子力ルネサンス」の象徴的な出来事だと見ることもできる。そしてまた、これは1953年にアイゼンハワー大統領が提唱した「Atoms for Peace」の再来を思わせる出来事である。
「Atoms for Peace」とは、米国が二国間協定を通じて、原子力協力というインセンティブを提供する代わりに、当該国に核兵器の保有を断念させ、また核活動を監視することがその要諦であった。当時、この考え方に基づき西ドイツや日本など50カ国以上の国と次々に協定を締結していった。最近のアメリカの動きをみていると、まさに「Atoms for Peace」の時代を彷彿とさせる。米印協定にとどまらず、トルコ、ヨルダン、バーレーン、UAE、イスラエルなど中東各国と次々に原子力協力協定を結んでいる。それぞれの協定には、燃料供給の保証も含む原子力協力のインセンティブを含むが、それと同時にアメリカとしては、中東各国の原子力活動に監視の目を光らせる手掛かりとしたい、という意図があることは明らかである。
当然、原子力ビジネスにおける国際競争は激化する。そうなれば保障措置や計量管理、安全などコストのかさむ部分や、第三国への技術移転禁止などにおける条件の緩和をめぐる競争につながる恐れが出てくる。「Atoms for Peace」の枠組みは、まさにこの問題によって破綻したのだ。1950年代終わり、アメリカ国務省の高官は、ビジネスを優先し保障措置の適用が厳格さを欠いていることに対して、こう言っている。「インドのような国でさえも、いくばくかのプルトニウムの生産力をもてば、核兵器開発に取り組むようになる」と。歴史は、この懸念が現実のものとなったことを示している。そして、そのインドとの原子力協力によって、再び「Atoms for Peace」の扉が開かれようとしている。歴史は繰り返すのか。