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2008-06-06 19:58
意気投合したマッカーサー元帥と「ソ連通」ケナン
奈須田敬
並木書房取締役会長・月刊「ざっくばらん」編集長
彼が近づきがたい尊大かつ偉大なる軍人ではあっても、偉大なる行政官であるとは限らない。それは、マッカーサー元帥に当てはまる評価である。しかし、偉大なる行政官でなくとも、相手がマッカーサーに対し、真実を吐露し、彼がそれを正しいアドバイスであると直感したとき、彼マッカーサーは素直に、相手を信用するという純粋さ、雅量をもった軍人であったことは疑いない。ケナンとマッカーサーの会見がそれを証明している。
会見のさい、ケナンはマッカーサーの、泣きどころをおさえた、とも書いた(本欄2008年4月4日付投稿575号)が、その核心は、「仮想敵」ソ連に関するケナンの透徹した観察と政策であったろう。その頃(1948年3月)すでに、東西冷戦は開始されており、マッカーサーも連合国軍総司令官として、他の誰よりも重大な関心を持っていたはずであり、しかも、占領業務に追われて、ソ連の動向について満足な情報を得られないという焦燥感にとらわれていたのではなかったか。
そこへ、その欲求を十分に満たしてくれる国務省の役人が目の前にあらわれて、滔々と弁じ立ててくれるのである。まさに願ったり叶ったりではないか。「私は単独でマッカーサー元帥から招かれて、夜の長い会見をすることになった。私たち二人は、占領と平和条約に影響する事柄で、われわれの旧同盟諸国に関係ある問題をはじめとして、占領政策の主要問題のすべてについて、何一つの例外もなく、話し合った」(『ケナン回顧録』)と、ケナンは述べている。腹心ウィロビー少将(情報部長)から、ケナンの考え方、人柄を聞かされていたマッカーサーが、「二人きり」で「夜の長い会見」を十分楽しみ満足した姿が髣髴としてくる。
ケナンの「狙い」は簡単である。「仮想敵」ソ連に立ち向かうには、(1)日本(とドイツ)を速やかにアメリカの戦列に加える必要があり、(2)そのためには、日本の国力を復活・復興させねばならなかったが、(3)その大きな障害になっていたのは、現行占領政策そのものである、という指摘であった。なんとなれば、(4)現行占領政策下の日本は「平和条約締結とともに、直ちに期待されるはずの独立の責任を立派に背負ってゆくことのできる状況にはなかった」(同書)からである。(5)占領政策を変更することについては、合衆国政府と在日米軍総司令官(元帥)は、極東委員会や対日理事会が反対しても、独自の判断でやれる、ということであった。「以上の論理が、元帥を大いに喜ばせたようであった。元帥は膝をたたいてうなずいたほどであった。元帥と私とは、ついに心と心が結び合うことができた、という共通の思いを抱いて別れた」(同書)とケナンは述べている。
一息いれて、国務省きっての「ソ連通」ジョージ・F・ケナンの横顔を紹介しておきたい。ケナンは1925年プリンストン大学を卒業後、国務省に入り、ソ連専門家としての訓練を受けた。1933年に米ソ国交が樹立されると、外交官の1人としてモスクワに赴任し、以来1946年まで3回にわたり計約7年間モスクワ大使館で過ごした。彼は1946年2月、代理大使としてモスクワ在勤中、異例の長文電報をワシントンに送り、その中で詳細なソ連論を展開した。この電報はソ連の行動に失望し始めていたワシントンの政府高官の間で読まれ、彼らのソ連観に大きな影響を与えた。ケナンが翌年ジョージ・マーシャル国務長官により政策企画室長の地位に任命されたのも、長文電報によって彼がトルーマン政権首脳部から注目されるようになっていたからである。
1947年春の間、政策企画室長としてマーシャル計画の発表など新たな対欧政策の立案に力を注いだケナンは、前年の長文電報をもとにして、ソ連の対外行動の性格とその対応策を論じる「X論文」を執筆し、それを外交評論誌に発表して、世論の啓蒙を担った(『アメリカ外交50年』)。ケナンの対ソ政策は、一般に「対ソ封じ込め政策」として有名である。マッカーサー元帥をして「膝をたた」かせたケナンの説得力は、マーシャル国務長官の支持を得て、確固たるものがあった。
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