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2008-01-18 20:07
ケナンとマッカーサー:対決から同志的関係へ
奈須田敬
並木書房取締役会長・月刊「ざっくばらん」編集長
1948(昭和23)年3月1日、ケナン米国務省政策企画室長は、猛吹雪の中、東京羽田に到着した。疲れを充分とる暇もなく、ケナン一行は、連合国軍総司令官であり、在日米軍総司令官であるマッカーサー元帥の官邸の昼食に招かれた。《食事も終わりに近づいた時、元帥は、私に背を向け、スカイラ将軍の方ばかりを見ながら、一本の指を立ててテーブルを時々たたいて注意を促しながら、独り舞台でしゃべり始めた。その長広舌は、なんとかれこれ2時間も続いたことを、私はいまでも忘れてはいない。うんざりしながら、私は身じろぎもしないでいた。もちろん、ノートを取ることもできなかったから、この談話の詳しい記録など持っていない。だがこれは、元帥がワシントンからの賓客のみんなに話すことになっている決まり文句に近いものであったらしかった》。
まず、マッカーサーとの初対面の印象を記し、後刻ケナンに渡された資料については、《・・・つまりは、それは十分に興味はあるが、私の使命の基本的目的を満足させるには程遠いものであった》と軽くいなしている。次の夜、ケナンはホテルの部屋に引きこもって、マッカーサー宛に書面をしたためることになった。そんな時、ケナンはマッカーサー元帥幕僚第二部長(情報・治安担当)のウィロビー少将の訪問を受けた。《元帥の有力な幕僚の一人であった。私たちはその夜は愉快な時間を過ごし、多くのことを語り合った。少将は、ソビエト連邦に関心を抱いていた。ソビエトの復興の進展ぶりや、ソビエトの戦後外交政策の発展などに対する関心であった。少将は私に、翌日SCAP(連合国軍司令部)の高級将校の集まりで講演してくれと要請した。この要請に私は快く応じた》。
結果は上々であったことが、一両日後に知らされた。マッカーサー元帥はこの時の集会には姿を見せなかったが、元帥が何らかの方法で、ケナンが話した内容をすっかり知らされていたらしいことを、後になってケナンは察することができた。ウィロビー少将とケナンが話し合ったことも、少将の口から伝えられていたようで、ケナンの使命の目的、占領政策に関するケナンの関心の内容などについて抱いていた疑惑の幾分かを解消したようだった、とケナンは素直に記している。
おそらくケナンは、マッカーサー、ウィロビー間の“以心伝心”関係について一早く気付いたのであろう。《それはともあれ、一両日後、私は単独でマッカーサー元帥から招かれて、夜の長い会見をする事になった。私たち二人は、占領と平和条約に影響する事がらで、われわれの旧同盟諸国に関係ある問題をはじめとして、占領政策の主要問題のすべてについて、何一つの例外もなく、話し合った。元帥は自分の見解を自由に話したし、私にも同じように話すように言ってくれた。元帥自身は、すでに私たちの目にもそれとわかる、いくつかの危険について知らないわけではなかったし、また元帥が、私たちに劣らず、多くの占領政策の変更と修正が必要であることを感じていたことを、私は理解することができた(以下、極東委員会に関してケナンはマッカーサーに有益有力なアドバイスを与えた)。以上の論理が元帥を大いに喜ばせたようであった。元帥は膝をたたいてうなずいたほどであった。元帥と私とは、ついに心と心が結び合うことができたという、共通の思いを抱いて別れた》。
対決から同志的関係へ急転したあとの占領政策の修正・是正はケナンの独り舞台となった。《ワシントンに帰ると、私は国務長官(マーシャル元帥)に、日本で見てきた状況をできるだけ詳細に述べ、それに対処するアメリカの政策への包括的な献策を示した報告書を提出した。(略)この報告書は軍関係の委員が強力に参加している国家安全保障会議にも提出され、その上で大統領の決裁を受けることになった。(略)この献策書は多少の遅れはあったが、国家安全保障会議によって事実上完全に承認され、大統領の裁可を得た。(略)1948年末から49年初めにかけてのことであった》。
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