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2025-10-26 10:33

なぜ共産主義は「独裁」になるのか

加藤 成一 外交評論家(元弁護士)
 最近、日本共産党は「自由な共産主義」について、オンラインや赤旗で主として青年、学生、労働者、民青同盟員、青年党員らに対しキャンペーンを展開している。これは旧ソ連や中国の例から「共産主義には自由がない」との「反共攻撃」を打ち砕き、若い層を中心に党勢拡大を図る狙いがある。なぜなら、共産党はこのような「反共攻撃」が党勢後退の最大の要因と考えているからである(赤旗2024年6月12日)。そこで、志位和夫議長は、新たに「Q&A共産主義と自由;資本論を導きに」(新日本出版社)を出版し、マルクス・エンゲルスが「共産党宣言」(1848年)で「各人の自由な発展が万人の自由な発展のための条件である結合社会」を共産主義社会であると宣言したように、生産手段が社会化され一切の搾取が根絶された「共産主義社会」こそ人間の自由が花開く理想的な社会であると主張している。

 すなわち、マルクス「資本論」を引用し、資本による搾取や利潤第一主義がなくなれば、労働時間も短縮され、人間性を高める「自由な時間」も増えるというのである(赤旗2024年6月26日)。しかし、志位議長は共産主義社会における「言論の自由」の有無については一切言及していない。「言論の自由」とは、政治的には「政府当局者に対する批判の自由であり、民主主義の精髄である。」(小泉信三著「共産主義批判の常識」36頁、小泉信三全集10巻参照)とされる。法律的には憲法で保障された市民的自由であり基本的人権である(日本国憲法21条)。「言論の自由」は多様な価値観の存在と対立を前提とし、言論を通じてより良い結論を得るための民主主義の根本原理である。「言論の自由」は欧米や日本などの自由民主主義国家のみならず、旧ソ連や中国、北朝鮮などの社会主義・共産主義国家においても憲法上保障されている。即ち、1936年のソ連「スターリン憲法」においても、言論・出版・集会・デモなどの自由が認められていた。ただし、これらの自由は「社会主義体制を強化するため」にのみ認められる。

 上記の通り、社会主義・共産主義国家においても憲法上「言論の自由」が認められている。しかし、「スターリン憲法」では「社会主義体制を強化するため」との条件付である。これは、中国、北朝鮮でも同じであり、社会主義政権を批判する「言論の自由」はあり得ない。それどころか、旧ソ連では社会主義政権に対する批判は、「政府を転覆させようとするすべての行為」に該当し、刑法上の「反革命罪」として死刑を含む重罪に処せられた。中国でも社会主義政権に対する批判は、刑法上の「反革命罪」、現在では「国家安全危害罪」に該当し、死刑を含む重罪に処せられる。北朝鮮でも社会主義政権に対する批判は、「反党反革命分子」として、刑法上の国家転覆陰謀罪、祖国反逆罪、民族反逆罪、反国家宣伝・扇動罪に該当し、死刑を含む重罪に処せられる。中国については、香港、ウイグル、チベットに対する「言論弾圧」は過酷である。このように、「政府当局者に対する批判の自由」(前掲「共産主義批判の常識」)を認めない以上は、実質的に「言論の自由」が保障されているとは到底言えない。東ドイツ出身のメルケル元ドイツ首相も「東ドイツは独裁国家で言論の自由はなかった。独裁と不自由と不正の条件下で暮らした。」(メルケル著「自由(上)」226頁、同書(下)370頁、KADOKAWA)と言っている。

 中華人民共和国憲法第1条では、中国は労働者階級が指導する人民民主主義独裁の社会主義国家と規定されている。人民民主主義独裁とはプロレタリアート独裁の一形態であり、階級敵であるブルジョアジー(資本家や地主などの資産家階級)に対する独裁が行われるのである(毛沢東著「人民民主主義独裁について」334頁以下、世界の大思想35巻参照)。マルクス・レーニン主義(「科学的社会主義」)におけるプロレタリアート独裁とは、「資本主義社会から共産主義社会への過渡期の国家がプロレタリアート独裁であり」(マルクス著「ゴーダ綱領批判」139頁、世界思想教養全集11巻参照)、「抑圧者、搾取者、資本家の反抗を法律によらず暴力で抑圧する労働者階級の権力であり、抑圧のあるところに自由も民主主義もない」(レーニン著「国家と革命」499頁、レーニン全集25巻参照)とされ、その実態は共産党一党独裁である。このようなプロレタリアート独裁すなわち共産党独裁が自由と民主主義に基づく「言論の自由」と対立し矛盾することは明らかである。根源的に一元的価値観の共産主義は多元的価値観の民主主義とは妥協の余地が無いのである。

 日本共産党は、かつて、自民党から「自由社会を守れ」との激しい所謂「反共攻撃」を受けたため、1976年の第13回臨時党大会で「自由と民主主義の宣言」を行い、複数政党制、政権交代、信教の自由などの基本的人権を擁護発展させる立場を宣言した(日本共産党中央委員会著「日本共産党の70年」下巻50頁参照)。しかし、日本共産党は、現在も党規約2条でマルクス・レーニン主義(「科学的社会主義」)を党の理論的基礎とし、党綱領で「社会主義をめざす権力」(改定党綱領五の一七)と規定して、プロレタリアート独裁を容認している(不破哲三著「人民的議会主義」241頁「社会主義日本ではプロレタリアート独裁が樹立されなければならない」参照)。そして、マルクス・レーニン主義の核心は暴力革命(敵の出方論)とプロレタリアート独裁(共産党独裁)であるから(前掲「国家と革命」432頁、445頁参照)、日本共産党がマルクス・レーニン主義を理論的基礎とし、プロレタリアート独裁を容認している以上は、「政府当局者に対する批判の自由」(前掲「共産主義批判の常識」)である「言論の自由」と対立し矛盾することは明らかである。

 評論家の立花隆氏は、かつて、「日本共産党の研究(上巻・下巻)」(昭和53年講談社)を出版し、日本共産党の戦前の所謂「リンチ共産党事件」等を取上げて批判したところ、「反共分子」のレッテルを貼られ、党組織を挙げての狂気じみた激しい「文春反共デマ宣伝」攻撃を受け、共産党が国家権力を握った状態の下であれば、私に何が起きたかわからない、との恐怖の体験を述べておられる(同書上巻1頁以下、下巻480頁、502頁参照)。上記が事実であるとすれば、共産党による「言論の自由」に対する、通常の「反論権」を超えた不当な組織的攻撃であり深刻な問題と言えよう。立花氏は、また「近代政治史を専攻し、反体制運動史を研究していた若い研究者が、私に加えられた党組織を挙げての攻撃を見て、共産党を歴史的な研究対象とすることに恐怖を覚えたといい、私自身も慄然とした。」(同書下巻480頁参照)と述べておられる。

 そのうえ、先年の有力党員に対する「除名問題」も、党中央に権力が集中する「民主集中制」の問題点を含め、共産党に対する「言論の自由」に対する深刻な懸念である。以上の通り、1976年には「自由と民主主義の宣言」をした共産党であるが、同党が「暴力革命」(敵の出方論)と「プロレタリアート独裁」(共産党独裁)を核心とする共産主義のイデオロギーであるマルクス・レーニン主義(「科学的社会主義」)を明確に放棄し、社会民主主義政党に生まれ変わらない以上は、将来政権を獲得した場合に「言論の自由」に対する懸念を払拭できない。

 なお、志位議長は、旧ソ連や中国に自由がないのは、指導者が誤っていたこと、社会主義への出発が自由も民主主義もない後進国であったからであり、先進国である日本における社会主義建設とは根本的に異なると弁明する(赤旗2024年7月11日)。しかし、スターリンや毛沢東などの指導者の誤りは、各国共産党の党是とされる「民主集中制」により日本でも起こり得ることであり、旧ソ連や中国だけの問題ではない。そのうえ、共産主義における自由の喪失を指導者の責任のみに転嫁し矮小化することは許されず、根本的には共産主義革命理論である「マルクス・レーニン主義」(「科学的社会主義」)の核心である「プロレタリアート独裁」(共産党独裁)という制度そのものに最大の問題があることを看過すべきではない。前記の通り、「プロレタリアート独裁」は、生産手段を国有化する共産主義革命に反対する資本家階級の反抗を暴力で抑圧し粉砕するための労働者階級による革命的権力であるから、資本家階級を絶滅し反革命を根絶するまで継続される。のみならず、一元的価値観の共産主義は多元的価値観の民主主義とは妥協の余地が無いから、反革命の根絶後も半永久的に共産党の「独裁」にならざるを得ない。このことは旧ソ連、旧東欧、中国、北朝鮮、ベトナム、ラオス、民主カンボジア、キューバなどが十二分に証明しており、「プロレタリアート独裁」を完全に放棄しない限り日本共産党も例外ではあり得ない。
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