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2007-06-21 12:34
「本当の意味で知日家」グルー駐日米大使のこと
奈須田敬
並木書房取締役会長・月刊「ざっくばらん」編集長
回想録の中で吉田茂は、グルー駐日米大使のことを「大使は本当の意味で知日家である」と言い切っている。「本当の意味で」とは、吉田にとってどんな理由にもとづくものであったか。昭和16年後半、日米関係が次第に険悪化しつつあった折柄、当時「浪々の身の上で、他人から見れば、いわゆる悠々自適の境涯」(『回想十年』)にいたとみられていたが、「私は私なりに時勢を憂え、なかなか安住という気分にはなれなかった」(同)吉田は外務当局者や重臣の間を東奔西走するようになった。すなわち、東郷茂徳外務大臣、佐藤尚武外務省顧問、先輩の幣原喜重郎元外務大臣、牧野伸顕元内大臣等々、いわゆる親英米派の人たちであり、クレーギー駐日英大使、グルー同米大使などと意思疎通を図りながら戦争回避への道をさぐりつつあった。
とくに英国政府は日本がドイツに加担する危険ありと見て、クレーギー氏をわざわざワシントンから呼び戻して、東京駐在大使に任命したという経緯もあって、クレーギーは着任早々、当時のチェンバレン首相の旨を体して、日英親善のための催物を開くことなどに懸命であった。吉田も再三度クレーギーと面談したが、チェンバレンに代って首相となった(15年5月)チャーチルの外交政策は強硬となり、16年11月には、「もし日米戦争が始まったら、英国は1時間以内に米国側に立って対日宣戦をするであろう」と演説した。クレーギーは吉田に向って「本国政府の肚はお分かりのように、すでに決まっており、もはや説得のため自分の働く余地はなくなった」と沈痛な面持ちで語った。「当時私がこのチャーチルの演説から受けた印象は、英国としては、一日も早くドイツを撃破して、戦争を終結させるためには、なんとしても、米国を味方に引き入れて、参戦させる以外に途はないという境地を示唆しているということであった」(同)と吉田は述懐している。
クレーギー英大使は一歩退いた。吉田が一縷の望みを託したのはグルー米大使である。回顧録の中で吉田がとくに力を込めて書き留めているのは、いわゆる11月27日の「ハル・ノート」は文書上は「最後通牒(ultimatum)」ではなく、「日米交渉の基礎案(proposed basis)」である、と強調していることである。「その直後11月29日だったと思うが、虎ノ門の東京倶楽部に行くと、グルー米大使が待ち受けていて、私を二階の一室に連れ込み、いきなり私に対して、ハル・ノートを読んだかと云う。読んだとは言えないから、内容はきいているといったら、大使は『ハル・ノートは決して最後通牒ではない。日米両国政府の協議の基礎として認められたことを明示したものである。是非直接その趣旨を東郷外務大臣に説明したいから、会見を申し入れて貰いたい』といった。もとより私も大使の考えに賛成であったので、すぐさま東郷君に大使の申し入れを伝えたが、東郷君は、すでに政府の方針も開戦と決定していたから、会談を承諾しない。そこで大使は更に井上匡四郎子爵、その他1、2の友人に東郷君との会談を依頼したようであるが、東郷君の決意は右の通りだから遂に会談は行われなかった。」
以上が、吉田が高く評価する「本当の意味での知日家」グルーの真面目であるが、それは開戦時だけでなく、終戦時のグルー(国務次官)が、いかに日本との和平回復のために尽力したかの例、たとえば適例として、「日本の天皇制についても、早くから日本人は天皇制支持であると見通し、米国自体も、日本国民の総意を尊重して行く方針に決めていたと思われる」(同)と記している。戦後、グルーが知日派親日派を糾合して、「米対日協議会」を設立し、日本の再建のために占領政策の是正に努めたことでも証明されよう。
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