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2014-02-07 11:20

2月7日は、「北方領土の日」

金子 熊夫  外交評論家・元外交官
 いよいよ本2月7日からソチ冬季オリンピックが開幕しますが、忘れていけないのは、本日は「北方領土の日」であるということです。ソチでの開会式に出席する安倍総理はプーチン大統領との会談で、北方領土問題に直接触れるかどうかわかりませんが、両首脳の頭の中にこの問題があることは確かでしょう。ちなみに、ソチの西約500km のクリミア半島の突端にヤルタという有名な保養地がありますが、そこで1945年2月初め、ルーズベルトとスターリンが会談し、ソ連の対日参戦の代償(ご褒美)として千島列島を含む「日本占領」問題について密約が交わされました。それが、戦後ソ連(ロシア)が北方4島に対する領有権を主張する最大の根拠となっているとみられます。日本人としては、そうしたことも知った上で、ソチ・オリンピックを観戦すべきではないか、と小生は思います。ご存知のように、2月7日が「北方領土の日」と制定されたのは1980年(昭和55年)で、その目的は、「北方領土問題に対する国民の関心と理解を更に深め、全国的な北方領土返還運動の一層の推進を図る」(閣議了解)ためです。同年、国会の衆参両院においても「北方領土の日」の設定を含む「北方領土問題の解決促進に関する決議」が全会一致で決議されました。 

 ところで、そもそもなぜ2月7日なのかについては、あまり知られていないのではないかと思いますので、この機会に少し解説しておきましょう。そもそも、「北方領土の日」をいつにするかについては、当時様々な議論があったようで、日本降伏の直後、ソ連軍が択捉島への侵略を開始した(1945年)8月28日などいくつかの候補があったようですが、最終的に1855年(安政元年)に江戸幕府とロシア(当時は帝政ロシア)との間で最初に、かつ平和的に国境の取り決めが行われた日露和親条約が結ばれた2月7日に決まったものです。この条約で択捉島とウルップ島(得撫島)の間で日露の国境が決められました。つまり、日露の国境は、太平洋戦争(大東亜戦争)より90年前、日露戦争よりも50年前に平和的な外交交渉により確定していたのであって、ここに日本政府が北方4島は日本「固有の領土」であると一貫して主張する根拠があります。ところで、1855年と言えば、米国のペリー提督が2度目に来航し、日米和親条約が調印(1854年3月31日)されてから1年後ですが、この時ロシア側を代表して交渉に当たったのは、エフィム・プチャーチンというロシア帝国海軍軍人で、当時海軍中将(その後元帥に昇進)でした。

 彼は、皇帝ニコライ1世の命令で1852年9月、首都ペテルブルクを出発し、喜望峰経由でアジア各地を回ったのち、1853年8月22日(嘉永6年7月18日)、ペリーに遅れること1ヵ月半後に、旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊を率いて長崎に来航しました。長崎奉行の大沢安宅に国書を渡し、江戸から幕府の全権が到着するのを待っていたところ、クリミア戦争(1854-56年)に参戦したイギリス軍が極東のロシア軍を攻撃するため艦隊を差し向けたという情報を得たため、11月23日、長崎を離れ一旦上海に向かいました。こうした事情がなかったならば、彼は、ことによればペリーより先に江戸幕府と和親条約を結び、日本を開国させていた可能性があったと思われます。結局プチャーチンは、上海で情報を収集するなどした後、1854年1月(嘉永6年12月)、再び長崎に戻り、幕府全権の川路聖謨(としあきら)、筒井政憲と計6回会談しました。交渉はまとまりませんでしたが、将来日本が他国と通商条約を締結した場合にはロシアにも同一の条件の待遇を与えることなどで合意して、一旦マニラへ向かいました。彼は、マニラで船の修理や補給を行ったのち、再び日本に向かい、10月、函館に入港したものの、同地での交渉を拒否されたため、大阪へ向かいました。その後大阪奉行から下田へ回航するよう要請を受けて、12月に下田に入港し、そこで再び川路聖謨、筒井政憲らとの交渉が行われました。

 しかし、交渉開始直後の1854年12月23日(嘉永7年11月4日)、安政東海地震が発生し、下田一帯も大きな被害を受け、プチャーチンの乗艦ディアナ号も津波により大破し、乗組員にも死傷者が出たため、交渉は中断せざるを得ませんでした。津波の混乱の中、プチャーチン一行は、波にさらわれた日本人数名を救助し、船医が看護していますが、この事は幕府関係者らにも好印象を与えたようです。プチャーチンは艦の修理を幕府に要請し、交渉の結果、伊豆の戸田村(へだむら、現沼津市)がその修理地と決定し、ディアナ号は応急修理をすると、戸田港へ向かいました。しかし、その途中、1855年1月15日(安政元年11月27日)、宮島村付近で強い風波により浸水し、航行不能となりました。乗組員は周囲の村人の救助もあり無事でしたが、ディアナ号は漁船数十艘により曳航を試みるも沈没しました。プチャーチン一行は、戸田に滞在し、幕府から代わりの船の建造の許可を得て、ディアナ号にあった他の船の設計図を元にロシア人指導の下、日本の船大工により、代船の建造を開始しました。

 1855年1月1日(嘉永7年11月13日)、中断されていた外交交渉が再開され、5回の会談の結果、2月7日(安政元年12月21日)、プチャーチンは遂に日露和親条約の締結に成功しました。その3か月後、突貫工事で代船が完成、戸田村民の好意に感激したプチャーチンは「ヘダ号」と命名。彼は部下と共にヘダ号に乗り、宗谷海峡を通って、6月20日にニコラエフスクに到着しました。同地から陸路を進み、11月にペテルブルクに帰還を果たしました。なお、「ヘダ号」が小さくて、それに乗れなかった残りの乗組員約300名はドイツ船でロシア領を目指したが、途中でイギリス船に拿捕され捕虜となったということです。2年後、プチャーチンは1857年9月(安政4年8月)、再度長崎に来航して、水野忠徳らと交渉し、10月27日(安政4年9月10日)、日露追加条約を締結しました。さらに、その後、再び1858年7月に来日し、神奈川に入港。幕府側と交渉を行い、8月19日(安政5年7月11日)、日露修好通商条約を締結。翌日、江戸城で将軍家世子徳川慶福(家茂)に謁見した後、本国に帰国しました。

 幕府の全権としてプチャーチンと交渉に当たった外国奉行・川路聖謨は、アメリカ使節ペリーなどが武力を背景に恫喝的な態度を取っていたのとは対照的に、紳士的に日本の国情を尊重して交渉を進めようというプチャーチンの姿勢に大変好感を持ったそうです。川路はプチャーチンのことを「軍人としてすばらしい経歴を持ち、自分など到底足元に及ばない真の豪傑である」と敬意をもって評していますが、プチャーチンも報告書の中で、川路について「鋭敏な思考を持ち、紳士的態度は教養あるヨーロッパ人と変わらない一流の人物」と評しているそうです。ちなみに、その後プチャーチンや米国初代総領事ハリスと条約交渉を行った日本全権の一人、外国奉行・岩瀬忠震(ただなり)は、「横浜開港の祖」とも「幕末の三傑」とも称えられる名外交官(現在風に言えば外務事務次官か駐米大使級)ですが、彼は林大学の孫にあたり、祖先は小生の生まれ故郷、三河(現在の愛知県新城市)の出身です。新城の小生の生家の直ぐ近くには「曹洞宗勝楽寺」(1575年の長篠合戦後、信長と家康が勝利を祝い、連合軍と武田軍の戦死者を弔った寺)という名刹がありますが、その境内には岩瀬忠震の立派な顕彰碑が建っています。
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