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2012-03-16 09:52
東日本大震災から1年に思う
船田 元
元経済企画庁長官
昨年3月11日に発生した東日本大震災から、ちょうど1年が過ぎてしまった。マグニチュード9.0という世界最大級の大地震と、それに伴う大津波、そして福島の原発事故は、東日本の各地に甚大な被害をもたらした。今年3月6日現在、犠牲者は1万5,854人、行方不明者は未だに3,167人に上る。自宅を失ったり住めなくなったりして、避難生活を余儀なくされている被災者は、現在でも30万人を上回っている。一周年を迎えるにあたり、私たちはあらためて犠牲者に対するお悔やみと、被災者に対するお見舞いの気持ちを明らかにしなければならない。また被災者の多くは、仮設住宅での不自由な生活を続け、被災地では未だにがれきの撤去に手間取っている。私たちこのことを忘れることなく、息の長い支援活動を続けていくべきである。今回の大震災は多くの人々に深い心の傷を負わせたが、同時に、私たちに多くの教訓も与えてくれた。この辛い経験が、人々のものの見方や考え方を根本から変えてくれたといっても、言い過ぎではないだろう。教訓のひとつは、今の日本の政治にリーダーシップが欠如していることを示したことである。
「民主党政権だから」とか「菅総理だったから」対応が遅れたとするのは、あまりにも狭い見方である。私は、今の政治の仕組みそのものが、リーダーシップの発揮を妨げていると認識している。タテ割り行政を温存させたままで、さらには非常時において平時の法律や権限で対応しようとしたところに、根本的な間違いがあるのだ。欧米では常識となっている非常事態法や制度によって、総理官邸に権限を集中させるべきではなかったのか。さらに言えば、総理大臣の権限を強くするために、首相公選制を真剣に検討すべきときが来たのではないだろうか。これらの改革には憲法改正を伴うことになるが、その手続き法は既に国会で私たちが準備したので、大いに議論すべきではないだろうか。教訓の二つは、マスコミ報道のあり方である。国内では震災関連の報道が四六時中続いたが、海外に向けての発信は極めて乏しく、海外メディアの報道も断片的だった。そのため大津波で破壊されたがれきの山と原発事故の映像が一緒くたに報道され、誤解された面も否定できない。「原発事故で日本はがれきと化した」というような、世界的な風評被害をもたらした。
このことによって、今でも海外からの観光客は激減したままだ。また定期的に行われてきた海外との人的交流も、あちこちで制限されている。また国内の多くのマスコミは、復興の遅れや原発事故の責任を取らせるべく、レッテル貼りに忙しい。「東電は悪だ」といってしまえば簡単だが、そこで人々の思考を停止させてしまい、実際は何が原因だったのか、客観的で徹底した原因分析の機会を奪ってはいないかどうか、大いに懸念している。マスコミ報道はもっと謙虚に、様々なものの見方を我々に提供すべきではないだろうか。教訓の三つは、現場主義に徹することの大切さを教えてくれたことである。昨今は復旧や復興の遅れを指摘する報道が多くなった。被災地の市町村で決めたまちづくりのプランが、国によってストップがかけられている例も少なくない。たしかにどの程度まで防災を加味すべきかや、大規模の農地転用など、国が一定の基準を示さないと混乱をきたすことも考えられるが、私はもっともっと地域で決めたプランを国は尊重すべきだと考える。極端に言うと、国に求められる態度は、「カネは出すが、口は出さない」ということではないか。
また被災地の期待を一身に担って発足した「復興庁」だが、本拠地は東京になってしまった。現場の声や被災者の利便を大切に考えるのであれば、本来は仙台に置くべきではないのか。たしかに「復興局」は盛岡、仙台、福島市に置かれ、「支所」はさらに6か所に置かれるが、今度は同じ話を支所と復興局と復興庁に説明しなければならないなど、新たな二重三重行政を作っている。根本を変えなければ、復興の足取りは遅れるばかりである。大震災はまさに前代未聞の不幸な出来事だったが、これを克服して、より強靭で安全な日本を作るきっかけを我々に与えてくれた。しかしよほど政治がしっかりしなければ、「喉元過ぎれば、熱さ忘れる」の弊害を繰り返すことになる。関東大震災後の東京大改造を、帝都復興院総裁・後藤新平は提言したが、時の政府はそれを闇に葬り去った。もしこれが実現していれば、今は全く違う東京の姿があったはずだ。今回は絶対にその轍を踏んではならない。
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