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2009-06-04 09:28
「平等という幻想」について考える
大藏 雄之助
団体役員
フランス革命以来、近代国家においては国民は、自由と平等を保障されることになっている。しかし、そもそも平等など存在するのであろうか。日本国憲法が第14条で「法の下における平等」とうたっているのは、「裁判を受ける権利(access to the law)」のことだが、実はこれも空文である。不当だと思っても、貧乏人は訴訟を起こすこともできないし、裁判の過程では、どのような有能な弁護士を依頼できるかで、結果に相当の差を生じる。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずと云へり」と書いた福澤諭吉も、「されども今広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや」と続けている。世界を見渡すに、安定した先進国に生まれるのとアフリカや中東の戦乱地に生を受けるのでは、到底平等の人生ではあり得ないが、日本の国内だけを見ても、産院で祝福されて生まれる者もあれば、望まれない子として公衆便所などで産み捨てられる赤ん坊もいる。
裕福な家庭に育って一切お金の苦労もせず、世間の荒波も経験しないで、駄目な人間になってしまう例もあれば、貧しい家で育って刻苦勉励して、成功する場合もあるが、一般にはサンタクロースが希望通りのプレゼントを届けてくれる両親の子供である方が、しあわせである。また、名門とか有名人の係累ならば、社会に出るときにも常に1次試験を、時には2次試験までも免除されているようなもので、決定的に有利である。
政界でも財界でも芸能界でも、あるいは学界においてさえも、親の七光りの恩恵を受けている人がどれほど多数いることか。わが国では選挙権は狭い地域ではかなり平等だが、広域で比較すれば歴然と1票の格差が存在する。被選挙権に関しては世襲の地盤相続の威力は絶大である。「平等は幻想」と説くのは、反逆思想の鼓吹だろうか。
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