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2026-05-05 00:00
「1953年の日章丸事件」 もうひとつの見方
山田 禎介
国際問題ジャーナリスト
サウジアラビア産原油を積んだタンカー出光丸が4月29日にホルムズ海峡を通過し、日本に向かっていることがことさら注目されている。1953年、イラン産原油を積んだ当時の出光興産日章丸が英海軍の海上封鎖を振り切って日本に運んだとする「故事」があるからだ。これは日本とイラン友好の美談の始まりとされるが、果たしてそれはどう言う経過だったのか。 1950年代は米ソ冷戦初期であり、英国も大英帝国維持の命綱である英領インドを分割、インドとパキスタンとして独立(1947年)してまもない。その独立に強固に反対したチャーチルが首相に復帰(1951年)した。しかも英本国の基盤は第二次大戦後で疲弊していた。一方で20世紀前半からペルシャ(イラン)の原油利権を独占した英国策会社「アングロ-イラニアン」をイランのモサデク政権が国有化を宣言(1951年)、英国は揺さぶられた。
そのなかで当時の出光興産がイラン産原油の日本輸送を計画し、周辺地域への根回しをしたことは国の外交レベルを超える見事な戦略で、日章丸のイラン原油搬入成功は快挙。だがそれ以上に、この快挙の裏には、英米2国間が水面下で行った政治行動があった。イランのモサデク政権は1953年8月のクーデターで倒され、モサデクに代わり、親欧米パーレビ国王派のザヘディ将軍が首相に就任したのだ。イラン産原油を積載した日章丸のイランのアバダン港出港は、このクーデターわずか前の4月15日、翌年16日にはホルムズ海峡を通過してアデン湾、アラビア海に向かっている。いまでは機密文書公開で、このイランのモサデク政権転覆のクーデターは米アイゼンハワーに英チャーチル両政権による、米CIAと英MI-6と言う情報機関が仕組んだことが明らかになっており、相当の行動準備期間があった。まさにその不穏、不安定な政情のとばりが功を奏した日章丸事件だ。ところでこのクーデター後のアングロ-イラニアンはと言うと、1954年には株40%を米メジャー5社が、英BPが40%、シェル(旧ロイヤルダッチシェル)が14%、フランスの現複合企業トタルが6%を保有する新たなBPに改組し、コンソーシアム(国際石油企業連合)の一部となった。
本論に戻るが、戦時国際法の規定する「海上封鎖」は簡単ではなく、文字通りの完全な封鎖が要件。相当な海軍力の展開が求められる。1950年代の英海軍にはもはやその力はなかった。完全封鎖は、近年では米ソ核戦争の瀬戸際だったケネディのキューバ海上封鎖(1962年)が好例。かの日の日章丸はジャワ海で英艦船に臨検されるかに見えたが、それを脱したのは、米海軍からの航路支援があったからと言われる。アングロ-イラニアン改め、新BPの40%を握る米メジャーには、イラン産原油をエネルギー資源として売り込む、そのお得意先日本への目論見が、アイゼンハワー政権指示による米海軍の日章丸への航路支援となったのだろう。
海上封鎖で日章丸を阻止しようとした英国だが、第二次大戦時の首相でもあったチャーチルは回顧録のなかで、初戦のマレー海域での英主力戦艦と巡洋戦艦、さらに大戦半ばに現スリランカ海域での英空母のそれぞれを日本の攻撃で失ったことに衝撃を受けたと記している。親日家であろうはずもないこのチャーチルにとって、戦後間もないこの時期に起こった日章丸事件は、大英帝国時代に生きた自身のプライドを賭けて、航行を阻止したいものだったかも知れない。チャーチルは1965年に亡くなったが、その3年後に労働党ウィルソン政権は英軍の「スエズ以東からの撤退」と言う歴史的な決断を下し実行した。英軍撤収後に英保護領ペルシャ湾南岸の首長国は1971年、アブダビ、ドバイなど6首長国の連合国家「アラブ首長国連邦(UAE)」として独立した。歴史の皮肉は、現在の日本の中東原油の最大輸入国がこのUAE(2025年)であって、チャーチルが日章丸を阻止しようとし、米国が購入を薦めようとしたイランではないと言うことだ。
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