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2007-04-26 00:00
占領下日本で行われた米ソ戦
奈須田敬
並木書房取締役会長・月刊「ざっくばらん」編集長
吉田茂元首相は、その回顧録『回想十年』(新潮社、昭和31年)の第1巻において、占領軍総司令官マッカーサー元帥がソ連の北海道進駐申出を即座に拒否した一件を明らかにしている。
《私が元帥から直接聞いたことだが、占領開始後間もない頃、戦勝の効果を最大限に収穫すべく頻りに努めたソ連が、総司令官に働きかけてきて、占領部隊にソ連の兵力を提供するという形式で、北海道進駐を求めたことがあった。元帥はこのソ連の申出を直ちに峻拒した。このことは、先年私が外遊の際、ニューヨークで元帥に会って、直接聞いたのであるが、占領当時も、噂としては聞き知っており、ソ連の希望通りになれば、これは大へんなことになると心配したものである。
チェコとか、ポーランドとか、もともと共産主義でなかった国が、どうして共産国となったか。これらの国に対して、ソ連はまず軍隊を入れ、この軍隊を梃子としてクーデターをやったのである。クーデターをやるには、共産党員だけではできない。軍隊を入れることが第一なのだ。
もしソ連の希望通り北海道にソ連軍が入っていたら、今日の北海道は東独や北朝鮮のようになっていたことは疑う余地はない。そうなれば、日本は二つの国に分断されて、千島喪失どころの損害ではすまなかったはずだ》
マッカーサーが現実的で物わかりがいいと同時に、決断においても早い、それに “勘のいい” ことを意味する、と賞めた一例として吉田は挙げているのであるが、北海道進駐拒否の件は、総司令部民政局長だったホイットニー少将もその著『マッカーサー』の中で、「マッカーサー元帥によってこれを断られるや、俄に非協調的となり、事毎に占領政治の妨害をした」旨記している。
そのソ連の「非協調的」な態度が国際舞台であからさまになったのが、ワシントンにある極東委員会であり、東京にある対日理事会であった。極東委員会と対日理事会は占領政策を決定するための「統治」機関として設置されたもので、対日理事会は議長であり米国の代表でもある最高司令官、中国代表、ソ連代表、それに英、豪、ニュージーランド、インドの連合代表という4つの代表メンバーで構成されていて「最高司令官の意見を求め、これにアドバイスを与えるために」1946年4月の第1回会合以来、2週間に1度、数年にわたって開かれた。
「悪役」はソ連代表クズマ・テレビヤンコ将軍であった。マッカーサーは徹底的にテレビヤンコを嫌悪した。後に「テレビヤンコ将軍が会に列席するのが、友愛のためではなく、また日本に平和をもたらすためでもなく、相互間の不和をかもし出すためであることを、完全に理解したのである。元来、対日理事会は最高司令官たるマッカーサーを指図すべきものではなく、彼の特権を侵害すべきものでもなかった。が、じつのところアドバイスを与えたり、よい提案をするかわりに、管理の実際に口をはさみ、かえって彼の仕事をやりにくくし、手をひっぱり足をひっぱって、トラブルばかり起こしている」とマッカーサー元帥幕下のウィロビー情報部長(少将)は、マッカーサーの心情を代弁している(『知られざる日本占領』番町書房、昭和48年)。
占領下にくりひろげられた米ソ戦の実態は案外、目隠しされた当時の日本人には知られていないが、熾烈なものがあったことは、まぎれもない事実である。右、ウィロビー少将の『知られざる日本占領』には、それが赤裸々に暴露されている。現下日本の諜報合戦に、ぬかりがあってはなるまい。
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