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2009-08-21 00:00
(連載)北米の共和主義と日本の裁判員制度について(1)
河野 勝
早稲田大学政治経済学術院教授
あまりに有名なので引用するのも気が引けるが、アメリカのケネディ大統領の就任演説の一節に、「国が君たちのために何ができるかではなく、君たちが国のために何ができるかを問いなさい」(Ask, not what your county can do for you, ・・・ask what you can do for your country)という言葉がある。日本では、北米社会は自由主義と個人主義に貫かれていると考えがちであるが、それは歴史認識としても現状認識としても大いに間違っている。アメリカが200数十年前に打ち立てたのは、いまでいうところの「共生の思想」に基づく「共和国」(Republic)であった。
個人が異なる考えを自由に表明できることは、もちろん重要である。しかし、そのためには「個人が異なる考えを自由に表明できることの重要性」を(個人を超えて)みんなが合意していなければならない。共和主義というのは、個人が個人であるための社会をみんなで築いていこうという、逆説的な思想にほかならないからである。
実際、北米に暮らした経験があればだれでも、向こうの人たちがいかに自分の属する集団やコミュニティーをよくしていこうとする努力を普段から行っているかを感じとることができる。たとえば、家庭の中では小さな子供にも皿洗いやゴミだしの役割を与えて、家族というひとつの社会を支えあうことを早くから学ばせる。学校でも、自分たちの学校をいかに誇りの持てる学校にしていくか、ということを常に考えさせ、スポーツであれ、美術であれ、演劇であれ、音楽であれ、その年にもっとも貢献した生徒を表彰することをよくやる。そうした表彰の対象として、とくに citizenship award という賞を設けている学校も少なくない。
citizenというのは市民という意味であるから、そこでは優れた「学校市民」として、だれ彼(彼女)隔てなく友人関係を構築したり、親身にクラスメートの相談にのったり、イベントの企画や片付けを率先してボランティアしたり、というような学生が選ばれるのである。個人が、自分に認められている権利を主張したり、行使したりするだけでは、その人は citizen とは認められない。citizen という概念には、個人が自分の属する集団やコミュニティーの中で義務や責任を果たすことが期待されている。冒頭引用したケネディの演説は、北米に根強いこうした思想的伝統を見事に表現しているのである。(つづく)
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