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2024-04-30 23:12

岸田首相米国演説と聖書の教え

篠田 英朗 東京外国語大学大学院教授
 岸田首相が訪米時に行った議会演説が、その後の米国議会における予算審議で、議員たちに引用されたことが話題だ。時機にかなった演説だったということだろう。岸田首相は、米国連邦議会上下両院合同会議において、「米国が何世代にもわたり築いてきた国際秩序は今、新たな挑戦に直面しています。そしてそれは、私たちとは全く異なる価値観や原則を持つ主体からの挑戦です」という認識を披露しながら、「この世界は、米国が引き続き、国際問題においてそのような中心的な役割を果たし続けることを必要としています」と強調した。そして岸田首相は「世界は米国のリーダーシップを当てにしていますが、米国は、助けもなく、たった一人で、国際秩序を守ることを強いられる理由はありません」と述べたうえで、日本を米国の「未来のためのグローバル・パートナー」と位置付けた。この演説について、国際政治学者系の方々は賞賛を惜しまない一方で、政府に批判的な言論人の方々は批判を繰り返している。典型的な「見放され」と「巻き込まれ」の恐怖の安全保障のジレンマにそって、米国との絆を強固にすることに安心感を得る層と、それにかえって不安を覚える層とが、くっきりと分かれる構図だと言える。

 私も国際政治学者の端くれではあるので、前者の中に入っていてもいいはずだ。だが「米国のリーダーシップ」の必要性を米国人に訴え続け、日本がその「米国のリーダーシップ」の維持に貢献していくことを誓った2024年4月の状況での岸田演説については、複雑な気持ちだ。私は日本の憲法学者の通説の9条解釈は間違っているという学説を持っており、そのため憲法学者の方々から「右翼」とみなされている。安倍首相が推進した「自由で開かれたインド太平洋」構想についても、非常によくできたものだと考えており、繰り返し参照している。その安倍首相が米国議会で演説したのは2015年だったが、当時の問題になっていたのが平和安全法制だった。安倍演説は、その日本国内での議論の状況と、歴史認識を踏まえて、日米同盟を未来志向の「希望の同盟」と位置づけるものだった。当時の安倍演説と、今回の岸田演説は、類似した内容を持っているが、幾つかのトーンの違いがある。大きな違いの一つは、岸田演説が、「今日、一部の米国国民の心の内で、世界における自国のあるべき役割について、自己疑念を持たれていることを感じています。この自己疑念は、世界が歴史の転換点を迎えるのと時を同じくして生じているようです」と、アメリカ人の自信の喪失について、触れている点だ。現代世界において、米国の力が疑われ、何と言ってもアメリカ人自身が自国の役割を疑っているのを前提にして、岸田首相はいわば「弱音を吐かず、もっと頑張ってほしい」と頼んでいるのである。これが米国議員の琴線にもふれ、議会で引用されたりしたのだろう。アメリカ人へのアピールという点では成功したのだ。アメリカは日本にとって重要な同盟国である。したがって岸田演説を批判するつもりはない。だがアメリカの力は、本当に世界でリーダーシップを発揮し続けるほどにまで充実しているのか。私には疑念がある。

 もしアメリカのリーダーシップには裏付けがなく、国内も混乱していて疲弊しているのが現実に存在している実情だとしたら、どうだろう。日本の首相が、あたかもアメリカ人が、自己の力を疑うのを止め、猛然と邁進してくれさえすれば、世界は上手くいくのだ、といったトーンでまとめてしまう演説を行うことの妥当性にも、疑念が生じざるをえなくなる。岸田首相は、議会演説において、ウクライナへの支援の重要性と、東アジア情勢の重要性を繰り返し強調し続けた。これは裏を返せば、現在進行形の国際秩序の危機である中東情勢については、全くふれなかった、ということだ。果たしてこの取捨選択の態度は、持続可能性のある態度だろうか。ウクライナと台湾については、日米同盟は一致団結していると言えるから、繰り返し参照した。中東をめぐってはそうではないので、参照しなかった。アメリカはイスラエルの最大の支援国である。国連安全保障理事会でイスラエルのための拒否権を乱発して、ひんしゅくを買っている。これに対して日本は、即時停戦決議やパレスチナ国家承認決議などのアメリカが拒否権発動した際の安保理決議案に対しても賛成票を投じるなどの行動をとっている。もっともそれは日本独自の行動というほどのものではない。反対する国が世界でアメリカとイスラエルだけであるような場合に、さすがにそこまではアメリカに追従しない、アメリカとイスラエルとともに世界で孤立することまではしない、という態度である。だから議会演説において、岸田首相も、ウクライナと東アジアについて繰り返し参照しながら、中東情勢についてはふれることを避け続けた。岸田演説を称賛する識者の方々も、基本的に同じ姿勢だ。ウクライナと東アジアを語り続け、中東についてはふれないようにしている。日本が米国の「未来のためのグローバル・パートナー」であるのは、ウクライナと台湾をめぐってであり、中東をめぐってではない。果たして、これはどれくらい持続可能な態度だろうか。

 米国下院が、遂にウクライナ、台湾、そしてイスラエルの三者に対する巨額の財政支援を採択した後、ジョンソン下院議長がイスラエルを支援することは「聖書の教え(Biblical admonition)」だと説明したことが話題となった。これは比喩でもなんでもない。ジョンソン氏自身も属する共和党右派系では、米国南部の宗教右派は、大票田の支持母体である。ルイジアナ州選出のジョンソン氏は特に、福音派系の政治団体の法律顧問の経歴を持ち、実際に非常に宗教的な人物であり、これまでも演説で頻繁に聖書にふれてきている経緯がある。つまり大真面目に、聖書の教えに従って、イスラエルを支持し続ける覚悟なのである。これに対して、コロンビア大学から始まったパレスチナと連帯する学生のエンキャンピング運動が、その他の大学にも波及して、大きな盛り上がりを見せ始めている。イスラエルだけでなく、聖書の教えにしたがってイスラエルを支援し続ける米国のエスタブリシュメント層も、彼らの批判の対象だと言ってよいだろう。アイビーリーグの大学の学費の高額さはよく知られており、裕福な家庭の子息ばかりが通学しているとも言われるが、それでも巨額のローンを抱えている学生が少なくない。物価高の中でローン返済計画を中心に据えながら自らのキャリアを考えなければならない学生にとっては、国際司法裁判所(ICJ)でジェノサイド条約に基づく仮処分措置の命令を受けているイスラエルに対して260億ドルもの巨額の支援を行うのは、「聖書の教え」はもちろん、「リーダーシップ」といった概念でも、説明の付く話ではない。学生たちは、米国の対ウクライナ政策、対台湾政策についてまで批判する余裕はない。いずれにせよ質の違う話ではある。しかしウクライナに対して608億4千万ドル、台湾を含むインド太平洋地域に81億2千万ドルという巨額の支援は、イスラエル向けの260億ドルとあわせて、好意的に受け止められる話ではない。問題の根幹は、アメリカに、そのような三正面作戦をする国力があるのか、という大きな疑念だ。果たしてアメリカは、このような態度をいつまで続けていくことができるのか、という大きな不安が、そこにはある。岸田首相が米国議会で拍手喝采を浴び、米国議員たちに演説を引用してもらうのは、悪いことではない。しかし岸田首相自身が、国内でせいぜい支持率20%しか持っていない。その場の心地よさを優先するような態度で、現実の厳しさを見つめることを怠り、問題を先送りしていたら、いつか必ずしっぺ返しを食らうだろう。
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