国家戦略研究会
第2回定例研究会(メモ)

2008年6月26日
財団法人日本国際フォーラム事務局

 当フォーラム国家戦略研究会は、伊藤憲一日本国際フォーラム理事長(本研究会座長)を報告者に迎え、「戦略的大状況としての『不戦時代』」と題して、その第2回定例研究会を開催したところ、その概要はつぎのとおり。

1.日 時:2008年6月26日(木)午後6時30分~午後9時
2.場 所:日本国際フォーラム会議室
3.報告者:伊藤 憲一   日本国際フォーラム理事長
4.テーマ:「戦略的大状況としての『不戦時代』」
5.出席者:20名
6.概要

伊藤憲一座長による基調報告

 冒頭、伊藤憲一座長より、「戦略的大状況としての『不戦時代』」と題して60分間にわたり、下記のとおりの内容の基調報告が行われた。

 「戦略的に議論する」とか「戦略的に思考する」とはどういうことか。もっともオーソドックスな答えは、ディーン・アチソンの「大目的との関連の観点から複数の行動の選択肢を検討すること」である。また、コーリン・グレイは「あなたは戦略に関心がなくても、戦略はあなたに関心をもっている」と述べている。ここで指摘されているのは、戦略的思考における「対抗意志の存在」の認識あるいは「敵の存在」の認識である。そこから戦略論のゲーム性、秘密性、間接性などが派生する。「大目的との関連性や複数の選択肢の存在」が認められるとしても、国土開発計画とか、科学技術振興計画のような国内政策において議論される国家目標やその実現計画は、戦略論ではない。それは、戦略論という言葉の乱用である。 戦略論はあくまでも、国家あるいは民族が国際社会においてどのようにして生き残るか、に関する論考の体系であると言わなければならない。さらに、トーマス・シェリングは「考えられないことを考える」と述べたが、これはヘンリー・キッシンジャーの「絶対に、とは絶対に言うな」と同義である。これこそが、戦略的思考の真髄である。
 それでは、「非戦略的思考」とはどういう思考なのか。その代表的な例は、つぎの4つである。これらの「非戦略的思考」に共通しているのは、議論の入り口にタブーを設けて、自由な議論を許さないということである。言い換えれば、議論する前にもうすでに結論が存在しているのである。
 第1は、「法制的思考」である。法律や条約や制度が平和を保障してくれると考える。「日本が平和なのは憲法第九条があるからだ」という思考は、その典型である。戦争をするかどうかは、自らの選択の問題であるとされ、「対抗意志の存在」はまったく無視されている。
 第2は、「観念主義」である。「最初に主義(ドクトリン)、聖典(バイブル)ありき」であって、その演繹的解釈として世界が説明され、善悪が開示される。かつてのマルクス主義者、今日のイスラム原理主義者は、その典型である。
 第3は、「戦術的アプローチ」である。局部に執着し、大局を見ることができず、手段が目的化して、戦術に溺れるアプローチである。戦争終局の大局的展望もなく、開戦劈頭の真珠湾攻撃の戦術的勝利にすべてを賭けた1941年の日本は、その典型的な例である。
 第4は、「べき論の介入」である。戦略論は、「①情報収集→②情報分析→③状況判断→④問題設定→⑤戦略策定」という論理連鎖のなかで、最終的な「⑤戦略策定」の段階において「べき」論の結論を得ることを目的とする論理体系だが、その最終的結論に至る直前の段階まで、つまり「①→④」の全過程においては、徹底して「である」論に終始しなければならない。この部分に「べき」論を入り込ませてはならない。「①→⑤」の論理連鎖において、とくに「③→⑤」において、そのノウハウを理論化したのが、戦略論である。
 軍事戦略論には「直接接近」と「間接接近」の2つの要素(体質)があり、それはそのまま国家戦略論の要素(体質)にも引き継がれている。2つとも元来は「戦争必勝法」の方法論だが、直接接近の戦略論は力の直接的使用(戦闘正面における敵主力の撃破など)や物理的使用(砲撃、突撃などによる敵戦力の破壊など)を良策とするのに対して、間接接近の戦略論は力の間接的使用(敵背後に迂回しての奇襲など)や心理的使用(詭計による敵の心理的な攪乱など)を上策とする。クラウゼヴィッツはナポレオンの「決戦戦略」からヒントを得て、直接接近の戦略論を確立したとされる。それを海軍戦略に転用したのがマハンであり、他方クラウゼヴィッツを批判したリデル・ハートや、弱者の立場から「遊撃持久戦略」(「機動戦略」の一種)を指導した毛沢東は、間接接近的であるとされる。しかし、現実にはクラウゼヴィッツやマハンの戦略論にも間接接近的要素があり、また毛沢東やリデル・ハートの戦略論にも直接接近的要素がある。軍事戦略であれ、国家戦略であれ、戦略は状況の函数であり、状況次第で直接接近的戦略が優れ、あるいは間接接近的戦略が妥当する結果となるべきものであって、予めどちらかの戦略が優れていると決めてかかるべきものではない。
 国家戦略論としてクラウゼヴィッツの『戦争論』を読めば、その言わんとしたことは「政治の延長としての戦争」や「武力による決定の担保」などを説いた戦争哲学の部分にあり、それはむしろ間接接近的な要素に満ちたものであった。とくに重要なのは「武力による決定の担保」の原理である。「武力を行使してみればどうなるかという結果が、あらかじめ相当程度確実に交戦者双方に見通される場合、つまり武力による決定の担保がある場合には、あえて武力を行使するまでもなく、政治的な解決に到達することができるはずである」と、クラウゼヴィッツは言う。これは軍事力のもつ心理的効用と政治的意味合いに、われわれの注意を喚起している。軍事力は持てばすぐ、物理的、軍事的に使用することになるという、そういう単純な性質の存在ではない。
 マハンが「戦力誇示の戦略」の原則で述べようとしたことも、「誇示(showing the flag)」という言葉からわれわれが受けるかもしれない好戦的な印象とは正反対のものである。軍事力には、それを物理的、軍事的に使わなくても、心理的、政治的な効用があり、それこそが平和を担保している、との指摘である。「たとえ劣勢艦隊(inferior fleet)であっても、艦隊は存在することそれ自体によって価値がある」という「現存艦隊 (fleet in being)」の思想である。軍事力には攻撃的使用法と同時に防衛的使用法があり、かつその各々について物理的使用法と同時に心理的使用法がある。そして軍事力の心理的な使用法こそは、政治的な使用法に他ならず、将軍ではなく、政治家が使いこなさなければならない力(威嚇力、抑止力)である。この認識こそは、国家戦略論の真髄であると言わなければならない。とくに「不戦時代」の到来を時代状況として捉える場合には、その函数としての国家戦略論は、軍事力の「間接的」「心理的」「政治的」「平和的」利用の可能性を、つまり「不戦」を担保しているものは何であるのかを、徹底的に研究し尽くしたものでなければならない。
 21世紀を迎えた現代国際政治の「大状況」として、国家間の「戦争」ではなく、各種の「紛争」が、脅威の主流になりつつある。「不戦時代の到来」である。それはまだ明確に「到来した」とは言い切れないかもしないが、世界全体がその方向に向かって進みつつあるという方向感覚を持つことが大切である。「紛争」という現象は、人間の本能に根ざす生理現象の一種であり、それは過去つねに存在したし、将来も永遠に存在しつづけるだろう。しかし、「戦争」という現象は、人間の営む社会活動に由来する社会現象の一種にすぎず、したがって、起源をもつ。ということは、社会現象の因果関係が変化すれば、この現象は消滅する可能性があるということだ。「戦争」と「紛争」を区別することが、すべての思考の出発点となる。
 いまや世界は「戦争」の違法化された「不戦時代」に入っており、平和への主たる脅威は国家間の「戦争」ではなく、ならず者国家、破綻国家、国際テロリストなどの産み出す「紛争」である。これらの「紛争」の創り出す脅威への対応は「戦争時代」の脅威への対応とは異なる対応を求めている。我々に求められるのは「国境を超えて相互依存を強める世界で、日本だけの平和はあり得ない」という認識であり、「あれもする、これもする」という「積極的平和主義」である。
 「不戦時代」の背景にあるのは、強力な保安官のもとでの世界システムの安定化だが、それは「武力による決定の担保」があるからであり、それを支えているのは米国の核戦力の圧倒的優位である。多極化した方がいいという議論が多いが、それは戦争史の観点からいえば「世界覇権戦争期」への逆戻りであり、歴史の退歩となる。

茂田宏元在イスラエル大使によるコメント

 伊藤座長の基調報告に引き続き、ゲストとして出席した茂田宏元在イスラエル大使より下記のとおりの内容のリード・オフのコメントが15分間行われた。

 イスラエルの友人が「日本は眠っているのではないか」と言っていた。「日本には戦略的思考がない」ということである。伊藤座長は戦略における「対抗意思の存在」を強調していたが、重要なポイントである。当フォーラムの政策掲示板「百花斉放」にも投稿したが、最近ある代議士からもらったメールに、彼が大蔵省に入省した際に当時の宮沢大蔵大臣が「君たち、どんなことがあっても、戦争はしてはいけない」との訓示をしたと書いてあった。この宮沢氏の発言は「対抗意思の存在」を無視している。戦争が自己選択の問題というのは間違った考え方である。「平和を願っていれば平和になる」というのは呪術的思考か、または敗北主義である。
 伊藤座長は非戦略的思考の問題点を指摘されたが、情報を集め、分析し、情勢判断をする必要がある。まさに「情勢判断をやらない」のが今の日本の問題点である。情報機関の必要性は繰り返し指摘されてきたが、全然実現しない。熱意が欠如しており、福田政権になってますますその傾向に拍車がかかっている。
 戦争と平和の問題について考えると、どういう時が平和で、どういう時に平和が破れたといえるか。歴史上、現実になった平和には3つのタイプしかないように思う。具体的には、(1)Pax Romana やPax Britanicaなどの「覇権による平和」、(2)ウイーン会議後の平和のようなバランス・オブ・パワーによる平和など「均衡による平和」、(3)冷戦時代の核兵器の巨大な破壊力への「恐怖による平和」、の3つである。「集団安全保障」や「法の支配」による平和は見果てぬ夢である。これからの話としては、民主主義国同士の戦争はきわめて稀であり、「民主主義による平和」は少し可能性があるかもしれない。
 戦後の日本は「軍事的に弱い日本」をテーマにしてきた。すべての周辺諸国がそれを望み、それは基本的に今も変わっていない。しかしアジアの平和のために「弱い日本」がいいという発想の有効期限はもう過ぎたのではないか。中国は2桁の伸びで軍事力増強を続けており、鄧小平は軍を抑えていたが、それ以降の指導者は軍におべっかを使っている。北朝鮮は多分核の小型化に成功している。小型核の設計図面がパキスタンのカーンの密輸組織のコンピュータから見つかったが、北朝鮮はそれを入手しただろう。ロシアもプーチンが「現在は軍備競争の時代だ」と明言している。
 こういう時代にあって、日本としては、「強い日本、しかし平和愛好的な日本」を目指すべきである。その際には日本の核抑止力の問題は避けて通れない。NPT条約締結時とは情勢が大きく変化している。「核による平和」ということをもっときちんと考える必要がある。日本の政権の方が金正日の政権よりもベターであることは明らかだ。いずれにしても、「強さ」と「平和愛好」が矛盾するという考え方は捨てたほうがよい。
 最後に2点述べたい。先日「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の報告書が出たが、報告書の結論とそれに至る論理は常識的で、説得力があり、大変よい報告書だと評価している。この報告書で提起された事項は、日米同盟の維持のためにも、日本が国際平和協力を今後展開していくためにも、不可欠である。
 日本は武器禁輸政策をとっているが、この政策の是非は真剣に考えるべきである。かつて第1次石油危機の時にサウジアラビアから「英、仏は武器を売ってくれるが、日本は売ってくれるのか」と言われ、武器輸出の代わりに対イスラエル政策の見直しを行ったという経緯があった。日本自身は武器をどんどん輸入していながら、輸出はしない、他国の防衛には協力しないといっている。偽善的であり、再考する必要がある。

出席メンバーによる自由討議

伊藤憲一座長からの上記基調報告および茂田宏氏によるコメントに対し、出席したメンバーからは下記のような意見が述べられ、活発な議論が繰り広げられた。

(a)  「伊藤座長の『不戦時代』という表現は思い切った表現だと思ったが、確かにそういう方向に世界は動いている。今日は発想の革命的転換期であり、軍事の役割が『殺すための軍隊』から『平和のための軍隊』へと急速に変化している。もちろんそれによって“殺す”ことがなくなるわけではないが、護憲派が25年遅れだとすると、改憲派も10年遅れの議論をしていると言えるのではないか」

(b)  「日本の難しいところは、日本自身は『ポスト・モダン』の次元に入っている一方で、周辺を中国、北朝鮮などの『モダン』の国々に取り囲まれている点である。日本は中国などに対してあまりに脆弱である」

(c)  「この10年間で世界は新しい時代に入っており、戦争と平和、パブリックとプライベート、国家と非国家、シビルとミリタリーなどの間の境目が変化し、曖昧になっている。日本としてこうした新しい状況にどう対応するかを考える時、アジアの特殊性というものが浮上してくるが、日本は集団的自衛権を行使できない一方、主権国家としても無力であり、その両輪とも欠けているのは問題だ」

(d)  「我が国において戦略は、戦争と平和以外の領域で多用されている。具体的には宇宙基本法、生物多様性基本条約、情報通信、知的財産、感染症などだが、これらの各分野は互いに重なり合っており、それぞれの戦略を統合し、上位の大戦略を考えていく必要がある」

(e)  「主権国家対主権国家の“戦争”はなくなったかもしれないが、高度に組織化された軍事組織間の“戦争”は引き続き存在するのではないか。国家という塊が大きくなり、“民主主義国”というカント的世界の国々の集まりと“それ以外の国々”という、別の塊同士の戦いになるのではないか」「21世紀は『もう一つの血塗られた世紀』になるとの説がある」に対し、伊藤座長より「『不戦時代』とは『平和な時代』という意味ではない。むしろ『紛争時代』という呼称のほうが正確だったかもしれない」

(f)  「日本国内では国権の発動としての“戦争”にこだわった議論をしているのが問題だ。日米同盟は成功したが、成功すればするほど国民の切実感が減少しているという逆説的な問題がある」

(g)  「北朝鮮が実際に日本に向けてミサイルを発射することは当面ない。米軍が必ず反撃ミサイルを撃ち込むからだ。今、北朝鮮で警戒すべきは犯人が特定できないテロだ。北朝鮮は旧ソ連の培養した天然痘ウイルスを持っているが、たった一人の感染した工作員が日本行きの飛行機に乗れば、全乗客が感染し、地域を選ばず日本中に広がることになる。こうした事態は国家間の戦争のように見えて、そうではない。伝統的な防衛力では防ぎ得ない。『戦争』と呼ぶかどうかは別として、新しいタイプの国家による他国への侵害が起こり得る。こういうケースも含めて包括的に考えていく必要がある」に対し、伊藤座長より「そういうふうに『考えられないことを考える』ことが、重要だ。それがこの研究会の使命だと思っている」

(h) 「アメリカが北朝鮮のテロ国家指定を解除すると日本は困るという議論があるが、日本もテロ国家指定をすればよい。北朝鮮は世界銀行の援助を必要としているが、日本は世界銀行の第二位の出資国だ。日本もテロ国家指定をして、世界銀行から北朝鮮に援助できないようにすればいい。包括的な戦略が必要である」

(i)  「『不戦共同体』というのはEUには当てはまる表現かもしれないが、トルコとギリシアを見ても明らかなように、西側全体を表現するところまでいっていないのではないか」

(j)  「核抑止力については、MAD(相互確証破壊)批判などもあったが、今なお有効と考えられるか。有効だとすればMD(ミサイル防衛)は不要か」「核の拡散にどう対応すべきか。キッシンジャーなどによる核兵器廃絶提案はどう評価すべきか」 に対し、伊藤座長より「核については、その拡散が不可避的傾向になってきていることが最大の問題だ。核拡散が進行するなかでどうして抑止の有効性を維持するかが問われている。冷戦期の二大発火点であった欧州と極東は、拡散しても、抑止可能な見込みだが、中東に核が拡がると、その対応は難しくなる」

(k) 「『不戦時代』にあって内政不干渉の原則は今後どのように変わってくるのか」に対し、伊藤座長より「内政不干渉の原則は、ウェストファリア主権国家体系の柱だったが、いまやその不可侵性は急速に崩れつつある。体系自身が変質しつつあると考えるべきだろう」

(l) 「国家戦略を展開するためにはツールの充実が必要である。どういうツールが日本にはあるのか議論が必要ではないか」に対し、神谷主査より「私が報告者となる次回定例研究会で、この問題も含めて報告したい」

(了)

(以上文責在事務局)